「諸国六十八景/越中 青城山」 しょこくろくじゅうはっけい えっちゅう あおじょうやま

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木版画 / 江戸 / 富山県 

二代歌川広重 (1826~1869)
にだい うたがわ ひろしげ
富山県高岡市
文久2年(初版)/1862
紙・木版多色刷り
縦23.6cm×横17.5cm(イメージサイズ 縦22.0㎝×横16.8㎝)
1
富山県高岡市古城1-5

 二代歌川広重(注1)の『諸国六十八景』シリーズ(版元:蔦屋吉蔵(注2))の一枚で、前景に氷見の阿尾(「青」は誤記)城(注3)を、背景に守山城(城山)(注4)を描いている。このシリーズは文字通り全国の名所、景観を一国につき一つずつ取り上げたもので全68図ある。本図は33番目である(因みに加賀は31番「白やま」、能登は32番「福浦湊」)。
 版型は「中判」で、縦向きのいわゆる「竪絵」である。右の縁が切れており、右下の三種の印文は読めないが、立命館大学所蔵「山城あらしやま」から察すると、上から「三十三」、不明、「蔦吉板」とあったと思われる。
 守山城の頂上は極端に扁平に描かれており、別名の「袴腰」(注5)といわれる様相が表現されているのであろう。
 また、阿尾城の先端は本来断崖絶壁であるが、本資料では緑に覆われている。そして、方角的に阿尾城から海を挟んで城山が直接見えているが、現実的には二上山に隠れて見えないはずである。また小矢部川河口であろうか、大きな橋が描かれるがこれも当時は存在しない。
 富山市郷土博物館所蔵品(以下「富博本」とする)が知られているが、それと比較すると色の違いが多くみられる。まず富博本は全体に青み(藍)が強く、本資料の阿尾城、及び城山はほぼ緑色である。また富博本で各山頂や左下の海に施されている青いグラデーションは本資料には見られない(特に阿尾城)。阿尾城山頂付近の松は、本資料は黒1色なのに対して、富博本は幹が茶色である。本資料は雲や表題枠内は薄い黄色が刷られるが、富博本は黄色が極めて薄く、中央の山境の空に赤いグラデーションが施される。
 よって、本資料と富博本は版が異なるものと考えられる。どちらが古い(後刷り)のかは現時点では判別しがたいが、本資料には何点かの省略がみられ、また刷毛目も粗いので、富博本の方がやや古い可能性があろうか。
 また、本図は享和2年(1802)刊の渕上旭江『北陸奇勝』(個人蔵)にある「越中青城山」に酷似しており、広重がこの図を基に描いたと思われる(参考画像参照)。
 状態は極めて良好である。

《注》
1.【二代歌川広重】にだい うたがわ ひろしげ  1826~69
浮世絵師。初代歌川(安藤)広重(1797~1858)の門人。俗称を森田鎮平、号を重宣という。師の没後その養女・お辰(16歳)と結婚し二代目歌川広重を襲名した。師の画風を忠実に継承した風景画などを描いたが、慶応元年(1865) 、妻22歳の時に離別。その後横浜に移り住んで喜斎立祥と号し、外国輸出用の茶箱のラベル絵などを描き、「茶箱広重」の名で外国人に知られた。また、花を主題にした一種の景色画、『三十六花撰』の出来栄えがよく、版元の求めに応じ、大錦判の竪繪に作った。なお、『名所江戸百景』のなかの「赤坂桐畑雨中夕けい」で秀逸な絵を残しており、初代の「赤坂桐畑」よりも構図、色彩ともに評価が高い。諸国名所百景
(藤懸静也 『浮世繪』 雄山閣、1924年(73年増訂)、HP「大分県立美術館」平成29年9月24日アクセス)

2.【蔦屋吉蔵】つたやきちぞう  生没年不詳
 蔦屋吉蔵は江戸時代中期から明治時代にかけて活躍した、江戸南伝馬丁一丁目の版元。紅英堂(紅栄堂とも)と称した蔦屋重三郎の別家の地本錦絵問屋で錦絵等の大手版元。蔦吉と略す。姓は林。享和から明治期に南伝馬町1丁目勝五郎店で営業しており、明治14年(1881年)には中橋または南伝馬町1丁目2、明治20年(1887年)には南伝馬町1丁目6で営業する。渓斎英泉や歌川広重、歌川国芳、歌川芳虎、歌川広重 (2代目) 、歌川広重 (3代目) らの錦絵などを出版している。
代表作を以下に記す。
・渓斎英泉 『傾城道中双録』 大判 錦絵揃物 文政末期
・渓斎英泉『美人東海道』
・歌川広重 『甲陽猿橋之図』 掛物絵判 錦絵 天保13年頃
・歌川広重 『五十三次名所図会』 大判 錦絵揃物 安政2年
・歌川広重『冨士三十六景』
・歌川国芳 『玉取り』
・歌川国芳『夜の梅』
・歌川国芳『東海道五拾三駅宿名所』
・二代歌川広重 『東京名所三十六花撰』
・歌川芳虎 『東京日本橋風景』
・三代歌川広重 『銀座通朝野新聞社盛大之真図』
(吉田漱 『浮世絵の基礎知識』雄山閣、1987年 p154/小林忠 大久保純一 『浮世絵の鑑賞基礎知識』 至文堂、1994年 p210/HP「明治大学図書館/30. 寶永御江戸繪圖 全(元題簽) / 東武 喜多川草鳥縮圖」平成29年9月24日アクセス)

3.【阿尾城】あおじょう
氷見市街地の北端、海に突き出た独立丘陵上に築かれた戦国時代の城。高さは40m程度だが、三方を断崖で守られた要害であった。能登と氷見を結ぶ街道を押さえるとともに、富山湾の海上交通の掌握をも目的とした。天正年間(1573~92)には菊池氏が居城した。菊池氏は、はじめ上杉謙信に従ったが、のちには織田信長、佐々成政に属した。成政が前田利家と戦うと、ひそかに前田氏に通じ成政と敵対した。成政降伏後、居城とともに1万石を前田氏から安堵されている。江戸時代の古城に関する書上申帳などによると、城は本丸・二ノ丸・三ノ丸の3郭からなり、本丸には矢倉があったという。廃城は慶長年間(1596~1615)であろう。県指定史跡(1965.1.1)。〈高岡 徹〉
(HP「富山大百科事典[電子版]」平成29年9月24日アクセス)

4.【守山城】もりやまじょう
高岡市東海老坂、小矢部川左岸にそびえる二上山の支峰(標高259m)に築かれた城。松倉城(現魚津市)・増山城(現砺波市)と並び,〈越中三大山城〉の一つと称される。別名を〈二上城〉〈海老坂城〉ともいう。現高岡市伏木の国府に近く、西の加賀とは小矢部川の水運や川沿いの街道によって結ばれていた。山上からの眺望もよく、氷見市や射水平野一帯を見渡せる。特に古くから日本海有数の港であり、鎌倉時代に守護所の置かれた放生津(現射水市新湊地区)も眼下に望むことができる。こうした政治・経済上の要地に城が立地する。城の創築は南北朝時代に遡り、1352年(観応3)には桃井氏の拠点となっており、能登から進攻した吉見勢に攻められている。当時、この城のある山は〈師子頭(ししがしら)〉と呼ばれた。南北朝時代の後半には,守護斯波義将が入城する。現在、麓にある守護町は当時の守護所にちなむとみられている。
 室町時代に入ると、射水・婦負2郡を治めた守護代神保氏の拠点となり、1519年(永正16)には越後の長尾為景によって城の麓が放火され、落城寸前に追い込まれる。このころ,守山城は神保氏の本拠であった放生津城の詰城的な役割を果たしていたとみられる。戦国時代の末期には神保氏張が居城し、佐々成政の有力武将として活躍。しかし85年(天正13)成政が豊臣秀吉に降ると前田利長が入城し、97年(慶長2)まで居城とした。その後,前田長種がしばらく城を守り、やがて廃城になった。城跡一帯はその後、藩有林だった。城は山頂部の本丸を中心に階段状に郭(くるわ)を連ねたものだったが、公園化や自動車道建設によって遺構がかなり損なわれている。〈高岡 徹〉
(HP「富山大百科事典[電子版]」平成29年9月24日アクセス)
 また、平成18年度から同23年度まで、高岡徹氏の指導を受けながら、高岡市教育委員会は「守山城跡範囲確認調査」を行ってきた。その成果は『富山県高岡市 守山城跡範囲確認調査概報Ⅰ』(高岡市教育委員会、平成19年)、「同Ⅱ」(平成21年)、「同Ⅲ」(平成24年)などにより公開されている。大きな成果として、守山城を二上山西峰の城山のみとする従来の認識から、山頂の二上山に城跡(「二上山城」と仮称)が築かれていた可能性が、遺構や文献から指摘されたことであり、さらに、その周辺に二上山南砦、摩頂山南砦、摩頂山城、北出丸、物見台、西砦、鉢伏山周辺遺構群など、二上山塊全域にわたり、城郭遺構が確認されたことである。また、現在の「守山城」は神保長職が、天文年間(1532~55)以降に本格的に「築城」して以降、神保氏張期を経て前田利長期に至るまで、山塊全域を要塞化していったとする指摘は重要であろう。

5.【袴腰】はかまごし
 城山の別名。管見の限り史料上には見当たらず、俗称であろう。『高岡市史』上巻(高岡市、昭和34年)p643に「(前略)ただ今、城山(二五八・九二米)、または袴腰と呼んでいる所が城跡で、元は「奥の御前」と同様尖った峰であったので、二上山の名を得たのだが、城を構築するため平らげたので、袴腰に変貌したのである。」とするが根拠を示していない。

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