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天正十一年七月二十六日付神保氏張年貢請取状(小四郎宛)

てんしょう11ねん7がつ26にちづけじんぼうじはるねんぐうけとりじょう

概要

天正十一年七月二十六日付神保氏張年貢請取状(小四郎宛)

てんしょう11ねん7がつ26にちづけじんぼうじはるねんぐうけとりじょう

文書・書籍 / 安土・桃山 / 富山県

神保氏張  (1528~92)

じんぼうじはる

富山県高岡市

天正11年7月26日/1583年

切紙・墨書

縦28.9cm×横14.7cm

1

高岡市立博物館

資料番号 1-01-6

高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

神保氏張の年貢請取状である。天正11年(1583)7月26日付に海老坂村(江戸初期に東西に分村)肝煎(村長相当)小四郎(上坂氏)が当時の守山城主・神保氏張に肝煎分173俵を除いた年貢米を蔵に納入した際に差し出したもので、その請け取り証明として氏張が花押を据えている。
氏張の花押は勝興寺蔵の書状(富山県指定文化財)に3点(図版は『雲龍山勝興寺古文書集』岫 順史、桂書房、昭和58年、p25-26)及び、天正十年六月付手崎の町宛制札(図版は『小杉町史』昭和34年、p71)のもの(花押右下へ伸びる長方形をもつ)が知られるが、本史料の花押(右下へ伸びる楕円)とは若干異なる。

本資料は既に越中郷土史研究の第一人者・木倉豊信氏が昭和39年(1964)に『富山史壇』28号(「上坂家文書目録」3号文書)で紹介しているので、新発見ではないが、原本を確認できたことは重要である。
さらに後に、『富山県史 史料編 近世上』(富山県、1980年、p36)82号文書としても掲載されており、その重要性が高いことを示している。詳細が明らかではない神保氏張時代の具体的な地域支配の実態を示す貴重な史料である。

【釈文】
  海老坂肝煎之事
 百七拾三俵者
   引残而
    蔵納申候
(氏張花押)   小四郎
   天正拾壱年
     七月廿六日

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【神保氏張】じんぼ・うじはる
 ?~1592(~文禄1)戦国時代の武将。守山(もりやま)城(現高岡市東海老坂)にあったといわれる。初め上杉謙信の幕下(ばっか)に入り,謙信の加賀方面進攻に従う。1577年(天正5)に謙信のつくった上杉家の将士名簿に名を連ねている。謙信没後は織田信長方に属し,越中に入国してきた佐々成政が最も重く用いたのが氏張であった。嫡男の氏則(うじのり)には成政の娘が嫁いでいる。氏張は守山城の麓(ふもと)の勝興寺に制札を発したり,土地を寄進したりしている。成政が魚津城(小津城)を攻め落とした時には軍勢を二手に分け,氏張を魚津城に当たらせ,成政は越後との連絡路を断ったのち合流してこれを攻め,末森城の合戦においても氏張は成政の別動隊の役割を果たしている。成政が1587年(天正15)肥後(現熊本県)に転封になるとこれに従って出国し,のち徳川家康に仕えた。〈奥田淳爾〉
(『富山大百科事典〔電子版〕』北日本新聞社、平成30年2月15日アクセス)

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