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巻菱湖法帖「楷書・重闢茶場碑記(折帖)」

かさねてひらくちゃじょうのひき

概要

巻菱湖法帖「楷書・重闢茶場碑記(折帖)」

かさねてひらくちゃじょうのひき

/ 江戸 / 日本

巻菱湖・林韑  (1777〜1843)

まきりょうこ

江戸時代後期

巻菱湖56歳の書。もとは、儒学者・外交官の林韑(林復斎)が文章を作り、菱湖が書いた石碑。これを写し刊行されている。石碑の彫りは、窪世昌で、一流の石工である。

石碑は、埼玉県入間市の出雲祝神社に建てられており、入間市の文化財指定となっている。

石碑の大意
「重闢茶場碑」
再度茶場を闢くの碑記 前縫殿頭 松平定常 題額
州北の河越地方に狭山という場所が有り。多摩と入間の二郡に跨っていて、昔から名茶を作って います。言い伝えでは、栄西というお坊さんが中国の宋に留学しました。建久年間に帰国しましたが、その時に茶の種も持ち帰りました。最初に種を筑前(福岡県)の脊振山(福 岡県と佐賀県との境にある)という場所に蒔きました。栄西の弟子の、高弁になって、種を畿道 (日本で朝廷のあった首都周辺と、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海道の地域)に植 えて、地質が合うかどうか実験しました。そして、5つの地域を栽培の地に決定しました。河越 はその中の一つですと、言われています。それなのに、長い年月が過ぎたら、お茶を栽培する家 も減ってきて、良い品種は雑草などに混じって分からなくなってしまいました。その他の栽培場 所も、上手に栽培する方法が分からなくなってしまいました。ですから、できたお茶は品質の悪 い物でした。ですが、宇治のお茶だけは、その名が全国に鳴り響きました。文政年間になって狭 山の名家の村野氏、吉川氏、江戸の山本氏とが相談して、再たび栽培場所を狭山の麓に復活させ て、数百年間廃れていたお茶の栽培を復興させることにしました。近村の数十戸の人々が、これ に随って協力して栽培したら、少しずつ回復して、年に数キログラムを収穫することができまし た。狭山茶の評判は日に日に高まり、製法もだんだん精密になりました。こうして狭山産のお茶 の名声が、復活したということです。最近、地元住民が上田文吉さんを通じて、私にその事を石 碑の文章にしてくださいと依頼してきました。私は、昔から茶道を嗜んでいたので、心から今回 の依頼を喜びました。そこで考えてみますと、茶というものは自然界の中で最も清らかで汚れの ないエキスを集めたものです。ですから、お茶の深い香りと甘さは、心の迷いを消してくれたり、 眠気を覚ましてくれたりしますので、お茶の効能は非常に大きいものなのです。羅景倫という人 は、「学問や政治に頑張っているときに気分転換として、お茶は必ず助けになります」と言って います。また蘇軾も「食事の後にお茶を飲むと、お腹がさっぱりします」と言っています。2 人 の言葉は、本当によくお茶のことを理解しているのが分かります。しかし、お茶は文人や風流人 だけのものではありません。高位高官の人たちもまた、一日としてお茶を楽しまない日はありま せん。ですから、お酒を醸し出す人々やお酒にのまれる人々たちと、どうしても一緒に論じるこ とはできないのです。今後、狭山の子孫たちが技術を承け継ぎ、品質を落とさないで、その生産 量を増加させていけば、狭山茶の評判は、きっと宇治に負けないでしょうし、復活させた 3 人 の名も狭山の谿山といっしょに、いついつまでも必ず伝えていかれることでしょう。さて、その 土地の名物や物産の流行り廃りは、時代の移り変わりに随って変わっていきます。その原因は関 わっている人々の勤勉さと怠慢によるものだと思います。私には、まだ今の繁栄が果たして永久 に続くかどうか分かりません。もし、今の繁栄を永久に続けていきたいと思うならば、その子孫 達が勤勉で、狭山茶の品質を落とさないで保っていけるかがポイントとなるでしょう。とりあえ ず今日の日付を書いて、しばらく狭山の様子を見守ることにいたしましょう。 天保3年(1832年)壬辰の陰暦4月 林韑が文章を作り 巻大任が書き 窪世昌が石碑に刻しました。

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