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慶長十年十月二十四日付前田利長知行所目録(野村小右衛門他三名宛)

けいちょうじゅうねんじゅうがつにじゅうよっかづけまえだとしながちぎょうしょもくろく のむらこえもんほかさんめいあて

概要

慶長十年十月二十四日付前田利長知行所目録(野村小右衛門他三名宛)

けいちょうじゅうねんじゅうがつにじゅうよっかづけまえだとしながちぎょうしょもくろく のむらこえもんほかさんめいあて

文書・書籍 / 江戸 / 富山県

前田利長  (1562~1614)

まえだとしなが

富山県高岡市

慶長10年(1605)10月24日付

紙本墨書

縦35.5㎝ ×横80.3㎝

1通

富山県高岡市

資料番号 1-01-34

高岡市(高岡市立博物館保管)

 加賀前田家二代当主で高岡開町の祖・前田利長(1562~1614)の知行所目録である。
 「知行所目録とは、主君が家臣に与える給地の場所と高を指定するもので、加賀藩ではのちに知行所(ところ)付(づけ)とよばれるようになる。前田氏の知行所給与は天正期からすでに分散(加賀・能登・越中国に分散の意/筆者注)相給(あいきゅう)(一村が複数の給人(加賀藩家臣)に分割支配された知行またはその土地/同)の形態をとっている」(1)。
 本史料は分散ではなく越中国のみだが、同国の氷見郡(2)・中郡(3)、及び利波(砺波)郡にまたがる、計2,000石を野村小右衛門他3人(4)の給人に給与(宛(あて)行(がい))している。
 内容は以下の5ヶ条(村)ある。①氷見郡十二町村(5)865.292石、②中郡金屋村(6)318.75石、③同郡つの(角)村(7)238.963石、④利波(砺波)郡ひたや(飛騨屋)村(8)431.14石、⑤同郡春日吉江村(9)145.855石(734.511石の内)。②・③・⑤は高岡市域である。
 次の「右在々、山川(さんせん)竹(ちく)木(ぼく)を除き、知行せしむべき者也」は、「右の村々にある山川竹木を除いて給与する」ということで、山・川・木・竹からの収益に掛かる税収(後の小物成)は、藩の収入である(10)ので、この一文は決まり文句である。
 次に利長の署名であるが、日下(にっか)(年代の下)に「利長(花押)(11)」とある。注目すべきはその右上に明らかに紙を擦って文字を消した痕跡があることである(裏面には簡易な補修痕あり)。ここに来てしかるべき文字は「はひ」である。利長の署名「はひ」は秀吉から天正13年(1585)与えられた「羽柴肥前守」の略称で、利長は多くの書状に「はひ」、または「ひ」と署名している(例「慶長13年11月12日付前田利長知行所目録」)。
 最後の4行はこの目録の宛先である野村小右衛門他3人それぞれの知行高が記されている。どの村から何石という詳細は不明だが、各人に別にその文書が発給されたのであろうか。
 裏面の紙が継いである部分には黒文円印「長盛」がある。この印は利長の印である(12)。
 状態は「はひ」と思われる部分の損傷以外は良好である。加賀藩初期の家臣統制等の一端がうかがえる貴重な史料といえる。

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※釈文

    知行所目録
                  氷見郡
一、八百六拾五石弐斗九升二合 十二町村
                  中郡
一、参百拾八石七斗五升    金屋村
                  同
一、弐百卅八石九斗六升三合  つの(角)村
                利波郡
一、四百卅壱石壱斗四升    ひたや(飛騨屋)村
高七百卅四石五斗一升一合之内  同
一、百四拾五石八斗五升五合  春日吉江村
   合弐千石
 右在々除山川竹木可令
 知行者也
         □□(はひカ)
  慶長十年十月廿四日 利長(花押)

    千石九斗壱升     野村小右衛門尉
    八百六拾八石参斗七升 杉江兵介
    百弐拾石八斗五升   前波加右衛門尉
    九石三斗二升     寺尾太郎兵衛


※裏の継紙部の割印は、黒文円印「長盛」。

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※注
(1)田川捷一編著『加越能近世史研究必携』北國新聞社、1995年、p207
(2)氷見郡(ひみぐん/ひみごおり)
 戦国末期から元和四年(1618)まで氷見郡、同年より寛文十一年(1671)まで氷見庄といわれ、同年より射水郡へ入るが、明治二十九年(1896)に再度氷見郡となる〔昭和二十九年(1954)まで〕。(同上書 p267)
 中世末~近世初頭にかけての郡名。ほぼ現氷見市域が属したが,近世には伏木地区も含まれていた。史料上の初見は1580年(天正8)の「織田信長朱印状」で信長は屋代十郎左衛門と菊地武勝(右衛門入道)に屋代1家分と20年来の新知行分を安堵(あんど)している。
 氷見郡の呼称は律令国家以来の国郡制上の郡ではなく,中世後期特有のいわゆる支配領域・勢力圏といった意味合いが強い。その呼称に至る経緯として,根底にはまず永正末年における能登畠山氏の当郡域への出兵があった。さらに結果として神保慶宗(よしむね)滅亡以後の神保氏衰退が加わって,畠山氏の氷見地域への進出を決定的にしたことが挙げられる。こうして当郡は射水郡(中郡)から分割されていったと考えられ,1618年(元和4)まで存続した。以後氷見荘と改称され,71年(寛文11)には中郡と併せられて再び射水郡と呼ばれるようになった。〈高森邦男〉(『富山大百科事典[電子版]』2010、北日本新聞社/平成31年1月5日アクセス)
(3)中郡(なかぐん/なかごおり)
 越中4郡のうちの射水・婦負郡。中郡の呼称がいつに始まるかは判然としないが,初見は1568年(永禄11)の「勝興寺顕栄書状」である。ともあれ中世末ごろには新川郡を〈東郡〉,砺波郡を〈西郡〉,残る2郡を中郡と呼んだ。ただし氷見地方は80年(天正8)には氷見郡と呼ばれ,近世初頭にかけてもそうした呼称が定着している。しかし82年に上杉景勝が神保信包に宛(あて)行った知行の中には中郡として氷見南部の耳浦や川尻が含まれており,天正中期の氷見郡・中郡については郡界などに流動性を残していると思われる。このような郡の分け方や呼称は越中を3守護代が分治したことや能登畠山氏の氷見進出に因(ちな)むと考えられる。即ち当郡は神保氏の支配領域そのものを指し,郡界は時期によって変わった。〈高森邦男〉(同上)
(4)野村小右衛門(ノムラコエモン)
 前田利常の時、銃卒二十員を附せられ、大坂両陣に従軍し、後役には町口で首一つを得、禄千石に至った。寛永八年(1631/筆者注、以下同)前田利次の傅(ふ=守役)となり、子孫富山藩に世襲した。
(日置 謙『加能郷土辞彙』昭和17年、金沢文化協会、p665)
杉江兵助(介)(スギエヒョウスケ)
 杉江丹後の子。慶長五年(1600)大聖寺の役に於いて首一つを得、十九年(1614)大坂の役には第五隊の銃将を勤め、禄千三百石に至った。後御小将頭となり、寛永六年(1629)没した。(同上書、p447)
前波加右衛門(マヘナミカエモン)
 越前府中に於いて前田利家に仕へ、千三百石を領した。子孫藩に世襲する。(同上書、p809)
寺尾太郎兵衛
  元和之侍帳・寛永四年侍帳・同一九年小松侍町に寺尾太郎兵衛(二〇〇石)の名がある(『加賀藩 初期の侍帳』昭和17年、石川県図書館協会)。(『石川県姓氏歴史人物大辞典』平成10年、角川書店、p361)
(5)十二町村(じゅうにちょうむら)
 現氷見市十二町・坂津・朝日丘。江戸期~明治22年(1889)の村名。射水郡南条保のうち。加賀藩領。十村組ははじめ五十里村組に属し、文政4年(1821)より南条組となる。寛文10年(1670)の村御印では、村高949石・免5・9、小物成は山役152匁・蝋役2匁・猟船櫂役70匁・あんこ網役42匁・潟廻網役31匁・鮒役24匁。(『角川日本地名大辞典 16 富山県』昭和62年再版、角川書店、p431)
(6)金屋村(かなやむら)
 現高岡市金屋(牧野金屋)。越中には「金屋村」が多くその比定は難しい。注(3)によると「中郡」は射水・婦負両郡からなり、しかもそれぞれに「金屋村」が存在している(婦負郡金屋村は現富山市西金屋)。しかし、慶長10年(1605)の本史料と年代の近い、「元和3年(1617)11月付 前田利光知行所目録」には「婦負郡」と「中郡」が同時に記されており、この時期の中郡に婦負郡が含まれていないことがわかる。よって本史料の「中郡金屋村」を現高岡市金屋(牧野金屋)と比定した。(田川捷一編著『加越能近世史研究必携』北國新聞社、1995年、p206-207)
 江戸期~明治22年の村名。射水郡大袋荘のうち。加賀藩領。寛文10年の村御印の村高は409石・免4.3、小物成として川役4匁、網役として出来2匁。(以下は別紙参照)
(『角川日本地名大辞典 16 富山県』昭和62年再版、角川書店、p242)
(7)つの(角)村(つのむら)
 現高岡市角・古定塚・角三島。江戸期~明治22年の村名。射水郡二上荘のうち。加賀藩領。寛文10年の村御印の村高465石・免4.3、小物成は猟船櫂役10匁。(同上書p548)
(8)ひたや(飛騨屋)村(ひだやむら)
 現南砺市(旧井波町)飛騨屋。江戸期~明治22年の村名。砺波郡山見郷のうち。十村組は山見組に属す。加賀藩領。元和5年家高7軒(利波郡家高ノ新帳)。寛文10年の村御印の村高746石・免4.3、野役17匁・鮎川役7匁。(同上書p724)
(9)春日吉江村(かすがよしえむら)
 現高岡市戸出春日。江戸期~明治22年の村名。砺波郡般若郷のうち。加賀藩領。役家数は元和5年(1619)14軒、延宝4年(1776)35軒。正保3年(1646)の村高731石(高付帳)。寛文10年の村御印の村高843石、天保10年(1839)の村高494石。(同上書p236)
(10)山川竹木(さんせんちくぼく)
 「知行所附の末文には山川竹木を除くと記さる。これ知行は釆地を以て給せらるゝ法なるが故に、山川竹木も亦之を領知すべきが如しといへども、此等に對する課税は、山手・川役・船役等と稻し、一般に小物成の名に總括せられて、藩の得分となるべきものなるを以て、之を給人の所得より除きたるなり。所附には口米と夫銀との額を記さず。これ一藩を通じて一定の率に從ふべきものなればなり。」(『石川県史』第三編、昭和15年、石川県、p43)
(11)利長の花押
 大西泰正氏の研究によると、利長の花押は5種(+2種?)ある。本史料の花押は「C」に分類され、慶長7年(1602)9.1~同15年(1610)8.12に使用されたものである。(大西泰正「前田利長論」『研究紀要 金沢城研究』題16号、2018年3月、石川県金沢城調査研究所)
(12)利長の「長盛印」
 田川捷一編著『加越能近世史研究必携』北國新聞社、1995年、p18

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